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Saturday, July 22, 2017

忙しさは暴力である(トーマスマートンとティクナットハンの言葉)


以下はティクナットハンが日本のみんなに2013年に書いた文章の一部分。
全文はwind of smileで!)

私のよき友であった故トーマス・マートン神父の言葉を借りれば、次のようになります。
 
「現代にまん延する暴力の形は、アクティビズム(積極行動主義)とオーバーワーク(過労)である。

現代生活のあわただしさとプレッシャーは、暴力の本質が最もありふれた形をとってあらわれたものであろう。

いくつもの相反する関心事に夢中になり、多すぎる要求を受け入れ、たくさんのプロジェクトに全力でかかわり、誰でも何でも助けたいと思うことを自分に許してしまうのは、まさに現代の暴力に屈服することなのだ。

アクティビズムの熱狂は、私たちの平和への取り組みを骨抜きにしてしまう。その熱狂は、平和を求める内なる能力を破壊する。努力を結実させるための内なる智慧の根を殺して、取り組みの成果を破壊するのだ。」

忙しさは現代の病です。平和のために活動しているとか、環境を保護するために尽くしているといってはばからない人たちでさえ、自らに課した過度のプレッシャーとストレスのもとに行動し、身心両面の健康を犠牲にしています。


「時間をむだにしてはいけない」と私たちは教えられました。
もっと行動し、もっと達成し、さらに結果を出せ、と。
速ければ速いほどいい、というわけです。


でも見てごらんなさい。
そのような集合意識は私たちをどこに導きましたか?
さらなる効率と便利さを求めた私たちは、とてつもない犠牲を払いました。
子どもたちによりよい未来を確約するために、さらに長い時間必死に働いて、そうしてその子たちに何を残しましたか?


今後何十年もの間、原発事故の影響下で生きて行かねばならないのは、その子たちです。
私たちのからだ、言葉、心によるすべての行為には、個人としての果実と集合体としての果実があります。
精神を物質主義に置きかえた社会は、その行いの果実である結末を自ら目にしなければなりません。
日本の社会の主流にはいわゆる「宗教アレルギー」があり、宗教の話はタブーであると私は理解しています。


人びとは宗教を怖れ、避けようとしていますが、ほんとうは自分にわからないもの、理解できないことを怖れているにすぎません。それをただ光で照らせばよいのです。そうすれば新しい発見があり、うれしい驚きがあるでしょう。
そこには、祖先からひと世代づつ受けつがれてきた伝統という名の最もすばらしい宝があります。
私たちが探しているものは、幸福と自由と平和とともに生きるための、怖れと絶望の呪いを解く鍵です。
その鍵は、私たちがずっと避けようとし続けてきたものの中にこそあるかもしれません。


大切な子どもたちによりよい未来を築きたいならば、それこそが、社会という集合体としてすべきことなのです。
私たちは、ただの亡霊にすぎない安全や地位や金銭や権力を「幸福」と呼んで追い求め、あまりに大きすぎる犠牲を払ってきました。


今、スピリチュアリティを私たちの生活の中に取りもどすときがきたのです。
日本だけでなく世界全体が、現在を犠牲にして遠い未来の亡霊を追い求めることを止め、この瞬間の中に目覚めなければなりません。未来は現在から作られます。
美しい未来を確実にする最良の方法は、「いま」という瞬間を美しく生きることです。
心配も後悔もなく、自由な人として生きるのです。
「いま」「ここ」に生きていることの奇跡を楽しむのです。
そのために必要なのは、ほんの少しの時間とマインドフルネスだけです。

全文はここ(中々ディープだよ)